【トーラス・ライフの経営哲学】6/29更新 BLOG 2025年6月29日 / 【トーラス・ライフの経営哲学】6/29更新 はコメントを受け付けていません 「便利さは、人間のエゴなのか?」 便利さは、人間のエゴなのか? 都市に生きる私たちは、あらゆる便利さに囲まれている。スマホで食事を頼み、数秒で情報にアクセスし、移動もクリック一つで完了する。一見、理想的で快適な暮らし。けれど、ふと立ち止まったとき、こう問いかけたくなる。「便利さとは、人間のエゴなのか?」人は人に支えられて生きているのに、都市という構造は、自然から切り離された脆弱なオアシス。自己完結を装いながら、実は無数の見えない依存の上に成り立っている。都市にある便利さは、本当に“氣”のめぐりを促しているのか。それとも、“自分だけがラクになる”というエゴを、トーラスの外に押し出しているだけなのか。 トーラスの原理から見た「便利」の意味 トーラス構造とは、中心に空(くう)があり、そこを通って氣(エネルギー)がめぐり続ける循環の形。生命も、意識も、関係性も、すべてこのトーラスのリズムに沿って動いている。けれど、便利さを追い求めると、私たちはこの“空”をすぐに埋めたくなる。待てない考えたくない感じたくない揺れたくないそうした「即答」や「即効性」への欲望は、氣が中心を通らず、外へ押し出される動きに似ている。本来、氣は“めぐる”ことで整うもの。だが、外側にばかり氣が流れてしまえば、内側はどんどん乾いていく。 本来の「便利」とは、氣をめぐらせる智慧だった 古代の道具や知恵は、便利でありながら、美しく、調和的だった。井戸は、水脈とつながりながら生活を支え、箸や器は、氣の流れに沿った形で作られた。それは、自然の氣を人の暮らしに“取り込む”装置だった。しかし今の便利さはどうか?感情を瞬時に消費し、情報を断片化し、自然のサイクルを無視して、24時間動き続ける。「自然との氣のめぐり」から切り離された“早さ”と“効率”だけが評価される世界。この流れが、氣を詰まらせていないだろうか? 便利の問い直し──それは誰の、何のためのめぐり? 便利なものが悪いわけではない。しかし、そこに氣の循環があるかどうかを問い直す必要はある。• これは「自分だけ」のための便利か?• それとも「誰かとの氣の共有」を助ける便利か?• この道具やサービスは、自然や人との関係を育てるものか?たとえば、手でご飯を炊くことは、多少不便でも、火・水・米との対話という氣の儀式でもある。それをすべて省略しても、身体や心は本当に満たされているのだろうか? エゴを超えて、氣をめぐらせる「便利さ」へ 本来の便利とは、氣を通す構造だった。それは人と自然、人と人、自分と自分を結び直す仕組みだった。だが、現代の便利さは、「めぐらせる」よりも「奪う」「急ぐ」「遮断する」方向へ進んでいる。だからこそ、今、もう一度問い直したい。「この便利さは、氣のめぐりを助けているか?」そして、便利さをエゴではなく、“祈り”の形にすることはできるか? 結び──便利さのトーラス的再定義 人はもともと、トーラスの渦から生まれてきた。誰もが、それぞれの氣の流れを持ち、それぞれのトーラスに何を乗せるかを選んでいる。便利さは、そのトーラスに「エゴ」を乗せることもできれば、「思いやり」「調和」「祈り」などを乗せることもできる。ブログを書くこともまた、一つの実行表現。その中に何を乗せるか? 誰と氣をめぐらせたいのか?それが、日々を選び直す鍵になるのだと思う。※こちらでご紹介している内容は、トーラス・ライフとしての経験や見解をもとにまとめたものです。必ずしも一般論や科学的定説と一致するものではありませんので、ご自身での判断とご理解のうえお読みください。 最後までお読みいただきありがとうございます。より詳しい内容や、日々の気づき・考えを「note」にて発信しています。ぜひこちらもご覧ください →トーラス・ライフ 中の人