【トーラス・ライフの経営哲学】6/28更新 BLOG 2025年6月28日 / 【トーラス・ライフの経営哲学】6/28更新 はコメントを受け付けていません 人は人に支えられて生きているのに、都市は自然と切り離された脆弱なオアシス 脆弱なオアシス──都市に生きるわたしたちと、切り離された自然 人は、人に支えられて生きている。そう感じる瞬間が、たしかにある。言葉、手助け、微笑み、気づかい──それらが、日々の心をつないでくれている。けれど、ふと気づく。この都市(まち)は、自然から切り離されている。土の匂いも、風の流れも、太陽の氣配さえ、どこか遠い。わたしたちは人とつながりながら、同時に自然からは切断され、閉じられた空間に棲んでいる。そして、そこに生まれているのは、“氣のめぐり”の不均衡──見えない脆弱性ではないだろうか。 自然の渦から生まれた存在 人は本来、自然の一部だった。山、川、空、木々、土、風──それらのリズムの中で生まれ、育ち、生きてきた。言い換えれば、自然という“巨大なトーラス”の渦の一部として、氣をめぐらせていた存在だった。呼吸のリズムも、眠りの周期も、植物や月の動きと共鳴していた。都市に生きる私たちは、その渦から、どこか逸れてしまったのかもしれない。 都市──情報と物資の渦、自然から断たれたシステム 都市はとても便利だ。水も電気も、食料も、ボタン一つ、カード一枚で手に入る。それはまるで、完璧に整備されたオアシスのように見える。けれどその実体は──外から氣を引き込まなければ維持できない、人工的な渦だ。山で生まれた水地中から得られたエネルギー広大な大地で育てられた食料それらを“氣の流通”として都市が吸い上げているのだとしたら、この都市は、**渦の中心を持たない「氣の吸い込み口」**に近い存在かもしれない。 自然との「めぐり」が断たれたとき、何が起きるか? トーラスの構造には、“中心に空があり、氣がめぐる”という特徴がある。しかし都市には、中心に空がない。効率、密度、利益──都市の設計思想には、「自然と共にめぐる」という概念がほとんど存在しない。だからこそ、災害やシステムの崩壊に対して、都市は脆い。氣のめぐりを断たれたトーラスは、渦を保てない。水も、食料も、エネルギーも、自然の渦から離れれば、枯れてしまう。それはまさに、自然から切り離されたオアシスのような姿。美しく見えても、脆弱な空間。人は人に支えられても、自然のめぐりなしには生きられない。 人とのつながりと、自然とのつながりは別ものではない 人は人に支えられている。確かにそうだ。でも、もっと深いところで言えば、「人を支える力」もまた、自然から来ている。氣のめぐりを絶やさず、身体を通し、言葉になり、行動になり、やさしさとなる。人と人のあいだに流れるもの──それが本当にあたたかくなるのは、自然という渦が内側に流れているときだけではないだろうか。 脆弱なオアシスに氣をめぐらせるには? この都市に生きている私たちに、できることがあるとすれば、それは、“内なる自然”を取り戻すことだ。自分の中心にある「空」を感じること植物を育てること季節に耳をすますこと氣のめぐりを感じる言葉を使うこと深く、息をすることそして何より──都市に生きながらも、自然とつながる“意志”を持つこと。 私にとって、その入口は「書くこと」だった 私が自然の渦とつながり直す最初の行為は、ブログだった。日々の感覚を記すこと浮かんだ想いを言葉にすること氣のゆらぎを文章に通すことそれは、自分というトーラスに氣を通し直す儀式だったのかもしれない。都市にいても、自然の渦は、自分の内側に流れている。だからこそ、ブログを書くことは、自然とつながる行為だった。 結び──オアシスに「中心の空」を取り戻す 都市が都市のままで存在するためには、“自然との渦の接続”を取り戻す必要がある。それは、インフラの話ではなく、ひとりひとりの「氣の感度」の話。都市が自然から切り離されても、私たちが自然とつながっていれば、都市もまた「氣のめぐる場所」になれるかもしれない。人が人に支えられる優しさの中に、自然の渦が、そっと息づいていますように。※こちらでご紹介している内容は、トーラス・ライフとしての経験や見解をもとにまとめたものです。必ずしも一般論や科学的定説と一致するものではありませんので、ご自身での判断とご理解のうえお読みください。 最後までお読みいただきありがとうございます。より詳しい内容や、日々の気づき・考えを「note」にて発信しています。ぜひこちらもご覧ください →トーラス・ライフ 中の人