人は人に支えられて生きているのに、都市は自然と切り離された脆弱なオアシス

脆弱なオアシス──都市に生きるわたしたちと、切り離された自然

人は、人に支えられて生きている。

そう感じる瞬間が、たしかにある。
言葉、手助け、微笑み、気づかい──
それらが、日々の心をつないでくれている。

けれど、ふと気づく。
この都市(まち)は、自然から切り離されている。
土の匂いも、風の流れも、太陽の氣配さえ、どこか遠い。

わたしたちは人とつながりながら、
同時に自然からは切断され、閉じられた空間に棲んでいる。

そして、そこに生まれているのは、
“氣のめぐり”の不均衡──見えない脆弱性ではないだろうか。

自然の渦から生まれた存在


人は本来、自然の一部だった。
山、川、空、木々、土、風──
それらのリズムの中で生まれ、育ち、生きてきた。

言い換えれば、
自然という“巨大なトーラス”の渦の一部として、氣をめぐらせていた存在だった。

呼吸のリズムも、眠りの周期も、
植物や月の動きと共鳴していた。

都市に生きる私たちは、
その渦から、どこか逸れてしまったのかもしれない。

都市──情報と物資の渦、自然から断たれたシステム

都市はとても便利だ。
水も電気も、食料も、ボタン一つ、カード一枚で手に入る。
それはまるで、完璧に整備されたオアシスのように見える。

けれどその実体は──
外から氣を引き込まなければ維持できない、人工的な渦だ。

山で生まれた水
地中から得られたエネルギー
広大な大地で育てられた食料

それらを“氣の流通”として都市が吸い上げているのだとしたら、
この都市は、**渦の中心を持たない「氣の吸い込み口」**に近い存在かもしれない。

自然との「めぐり」が断たれたとき、何が起きるか?

トーラスの構造には、“中心に空があり、氣がめぐる”という特徴がある。
しかし都市には、中心に空がない。

効率、密度、利益──
都市の設計思想には、「自然と共にめぐる」という概念がほとんど存在しない。

だからこそ、
災害やシステムの崩壊に対して、都市は脆い。

氣のめぐりを断たれたトーラスは、渦を保てない。
水も、食料も、エネルギーも、自然の渦から離れれば、枯れてしまう。

それはまさに、自然から切り離されたオアシスのような姿。

美しく見えても、脆弱な空間。
人は人に支えられても、自然のめぐりなしには生きられない。

人とのつながりと、自然とのつながりは別ものではない

人は人に支えられている。
確かにそうだ。

でも、もっと深いところで言えば、
「人を支える力」もまた、自然から来ている。

氣のめぐりを絶やさず、
身体を通し、言葉になり、行動になり、やさしさとなる。

人と人のあいだに流れるもの──
それが本当にあたたかくなるのは、
自然という渦が内側に流れているときだけではないだろうか。

脆弱なオアシスに氣をめぐらせるには?

この都市に生きている私たちに、できることがあるとすれば、
それは、“内なる自然”を取り戻すことだ。

自分の中心にある「空」を感じること
植物を育てること
季節に耳をすますこと
氣のめぐりを感じる言葉を使うこと
深く、息をすること

そして何より──
都市に生きながらも、自然とつながる“意志”を持つこと。

私にとって、その入口は「書くこと」だった

私が自然の渦とつながり直す最初の行為は、ブログだった。
日々の感覚を記すこと
浮かんだ想いを言葉にすること
氣のゆらぎを文章に通すこと

それは、
自分というトーラスに氣を通し直す儀式だったのかもしれない。

都市にいても、
自然の渦は、自分の内側に流れている。

だからこそ、
ブログを書くことは、自然とつながる行為だった。

結び──オアシスに「中心の空」を取り戻す

都市が都市のままで存在するためには、
“自然との渦の接続”を取り戻す必要がある。

それは、インフラの話ではなく、
ひとりひとりの「氣の感度」の話。

都市が自然から切り離されても、
私たちが自然とつながっていれば、
都市もまた「氣のめぐる場所」になれるかもしれない。

人が人に支えられる優しさの中に、
自然の渦が、そっと息づいていますように。

※こちらでご紹介している内容は、トーラス・ライフとしての経験や見解をもとにまとめたものです。必ずしも一般論や科学的定説と一致するものではありませんので、ご自身での判断とご理解のうえお読みください。

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